monologue : Project K.

Project K

雨ときどき晴れ

「前評判なんか気にするな、うまくいかないときだってある」

コーチが私にかけた言葉は、誰にでも苦肉の策とわかるような励ましの言葉だった。雑誌やテレビなどのメディアの力は、大衆と同時に本人にも影響を及ぼしている。私だってニュースくらい見るのだ、自分が何と言われているかくらい知っている。

『羽柴京子、メダルより引退が近いか』
「若いやつがマスコミに取り上げられるのは当たり前だ、勢いがあるからな」

私は、小学校に入る前から水泳をやっていた。いわゆる競泳。スピードを競うゲーム。

「お前はリラックスして泳ぐんだ。格の違いってものを見せてやれ」

コーチが必死に私をけしかけている。もう開始十分前。確かに、今年に入ってから調子は良くない。良くないどころか絶不調だ。オリンピックで銀メダルをとった数年前、私の落ち目を予想した人間がいただろうか。今や落ちるところまで落ちて、選考会すら危ういこの私を。

「言われなくてもわかってる。私はベストを尽くすだけ」

口をついて出るのも悪態だけ、野望も希望もない。

今回の大会は、選考審査会の主催。つまり、実質これが選考会なのだ。お偉い役人たちが高みで見物しているのが簡単に予想できる。

「そろそろ開始時間だ。よし行ってこい、いつも通りにな」
「わかってるって。いつも通りいつも通り。いつだってベストのつもりよ」
「心配するな、快晴や晴れの日があれば、雨の日だってあるんだ」
「台風の日もね」

口だけは威勢がいいものだ、とつくづく自分でも思う。アナウンスが始まる。

『ただいまより女子 400m バタフライ、第二組予選を開始します』
『第一コース、鹿児島県出身、涌井静香』

競泳のコース配置は、中心のコースから速い選手を並べられる。今回は計七コースだから、速い順に四コース、五コース、三コース、六コース、二コース、七コース、一コース、というわけだ。五コースと三コースに順番があるのかどうかは知らないが。

『第二コース、神奈川県出身、羽柴京子』

つまり今の私の期待値はこれくらい、というわけだ。他でもない審査会の私に対する期待値であり、不調な私の現状でもある。良くて四番手程度を期待されている。いや、期待されていないのか。

『第三コース、愛知県出身、坂下麻衣子』
『第四コース、神奈川県出身、山野恭子』
『第五コース、福岡県出身、金田菊恵』
『第六コース、東京都出身、佐藤真理』
『第七コース、岡山県出身、市川由紀子』

そうそうたるメンバー、と関係者なら思うような顔ぶれ。皮肉なことに、第四コースの山野恭子は私の後輩。名前も同じ。

『位置について』

号令がかかる。飛び込み台に立つ。普段よりはるかに高い視線、近くに見えるのは隣のコースの選手の顔だけ。視線のずっと向こうに観客席が見える。

『用意』

前かがみになって、足元に手先をつける。飛び込み姿勢。沈黙が会場をつつみ、文字通り息を飲んで次の破裂音を待つ。

とても長い一瞬の後に、待ち焦がれた音と笛の音が響く。

それと同時に曲げきった体をできる限り速く伸ばし、足場を蹴る。体を直線にして、水の抵抗を極力無くす。ほぼ同時に着水音。四分足らずの、短いような長いような、一人っきりの闘いが始まる。

プールの底をみつめたまま、足を上下に動かす。まだ水中。まだ。まだまだずっと。抵抗の少ない水中で距離を稼がないと。酸素が残り少ない。減速せずに浮上できるか。浮上しなければ。手先を水面に向けて、進路を少し変更する。もう少し、もう少し先だ。できる限り距離を。ああ、もう少し。体力と折り合いを。まだだ。そう、今。今、出るんだ。息を吸うんだ。

「んばれ、山野!」

一瞬息を吸い、また水中へ。誰かの応援が断片的に聞こえた。山野? ああ、四コースの選手か。期待の星だものね。そんなことはどうでもいい、今は泳ぎに集中しないと。腕も足もリズミカルに、ペースを保ちながらも速く。小刻みになりすぎないように、大雑把になりすぎないように。息継ぎはまだ。まだ、六ストロークくらいでいい。体力を温存しすぎるほどの余裕もないだろう。ええい、余計なことを考えるんじゃない。泳ぐんだ。

『山野、金田、佐藤、坂下と続いています。先頭集団は一塊です』

左隣の選手がすぐ前に見える。いける。追い越せる。もう少し、もう少しスピードを上げれば追い越せる。ターンで追い越せる。追い越すんだ。

『三位以下はいぜん固まったままですが、ここで山野と金田が頭ひとつ抜けました!』

抜いた、今抜いたはずだ。きっと私のすぐ後ろか、隣にいる。次は誰だろう。もっとずっと前か、ずっと向こうのコースか。今目の前には見えない。ずっと前か、ずっと遠くか。泳げ、泳ぐんだ。何も余計なことは考えるな。

『山野、金田、熾烈な先頭争い! 三位以下は、といいますと……』

どこだ、今どこ辺りなんだろう。タイムは? ペースを上げすぎてないだろうか? それとも下げすぎてないだろうか?

『佐藤と羽柴がほぼ同列です、ペースは羽柴の方がやや速いか……』

今何位だろう、息が苦しい。次の次のターンが最後の折り返し、最後のチャンスだ。折り返したら死ぬ気でスパートかけて、一秒でも速く。

『後半です、相変わらず山野と金田がトップ争いを……』

ああ、もうやめたい。どうして私はこんな苦しい思いをして泳ぐんだろう。いつもこんなことが頭をよぎる。そしていつも、答えは出ない。

『さあ最後のターン、各々ラストスパートを……』

今、壁に着く直前に、隣の隣の選手とすれ違った。私は第二コースだから、あれはきっと山野恭子だ。勝ちたい。勝てるものなら。

『終盤です、トップは山野か金田か、それとも後方から……』

息継ぎをするたびに歓声が聞こえる。誰へ向けたものなのか、どの地点に向けたものなのか。誰か、もうゴールの目前なのだろうか。

『スパート、スパート、山野か、金田か、後方には羽柴……』

何も考えられない。どこだったっけここは。

水の音。水の味。目にも水が。私は魚だろうか。晴れの日も雨の日も泳ぐ魚。

雲ひとつなくても、台風の中でも毎日泳ぐ魚。

赤いラインが見える、残り五メートルのライン。壁に手がつく。ゴールだ。目的地に到着だ。他の選手は? 私は何位だ?

その瞬間、歓声はより大きいものになった。いつも、レースの最後に聞く歓声。驚いて見回せば、二位で山野恭子がゴールするところだった。

一位だ。まさしく劇的な、逆転劇だ。変な日本語だけれど、芝居がかったレースだった。

『羽柴京子、完全復活か』

明日の記事はそうなるかも知れない、いやきっとそうだろう。駆け寄ってきたコーチが最初に言ったのはその言葉だった。彼の言葉を聞き流しながら、ゴーグルを外して一度潜る。不意にこぼれそうになった笑みをかみ殺して、平静を装って水面に出る。

「やったじゃないか、おい! 雨だの何だの言った割には曇りひとつないじゃないか!」
「雨の日、ってのはコーチが言ったことでしょ。私が言ったのは」

聞いているのかいないのか、コーチは観客席を見渡して涙目になっている。何が見えるのかと思って見れば、そこには私の名前を書いた旗が揺れていた。

「そうね、台風にだって目があるわ」

コーチに聞こえないように小声で言って、私は水を脱ぎ捨てた。数分ぶりに二足歩行する私の隣を、コーチが誇らしげに歩く。また私も誇らしげに、表彰台へと向かう。

表彰台と、その向こうの、より険しい勝負の世界へと。明日が晴れになるよう祈りながら。

Fin.

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