monologue : Project K.

Project K

風のささやき

「凄いなあ。地図眺めてるだけじゃ、こんな場所があるなんて気付きもしないよな」

車を停め、運転席からニ三歩、海へ向かって歩く。崖というほどの高さではないが、寄せる波が長い時間をかけて築き上げた、切り立った海岸線。晴れた日であれば、横一線に伸びる水平線と、その上に広がる青い空、その下に広がる青い海、きっと言葉にできないくらいの絶景だろう。残念ながら今日は少し霧がかっていて、普通の、どちらかというと薄気味悪い海岸線にしか見えないが。

「どうして、こんなところ……可奈子?」

助手席に乗っていた彼女は、車から降りずにじっと僕を見つめていた。何か思いつめたような目付きに驚いたけれど、きっと彼女が想定していたほど景色が良くなかったのだろう、それで不機嫌になっているのだと思い、僕は助手席に歩み寄ってドアを開けた。

「ほら、あまり天気は良くないけど、眺めは凄いよ」
「……うん」

少し憂鬱そうに車を降り、海に向かって歩く。国道から少し外れたこの場所は人の気配などなく、よほどの物好きくらいしか訪れないのだろう、草木は自然のまま荒れ放題といった様子だった。

「地元の人は」
「うん?」

海を見つめたまま、ふいに彼女が口を開いた。

「あまりここに近付かないの」
「どうして?」
「ここからじゃ見えないけれど、この海岸線、波打ち際にたくさん洞穴が空いていて、風穴洞とか、洞穴海岸って呼ばれてるのよ。そこの穴に風が吹き込んで、おかしな音をたてて人を狂わせる、っていうの」
「……音?」
「ほら、耳をすませて。聞こえるでしょう?」

彼女の言う通りに耳をすませる。波の音、風で揺れる草の音、木の音……それに混じって、どこか遠くの方で何かの楽器を鳴らしているような、細くて高い音が聞こえた気がした。

「……本当だ」

吹き込む風が歌を歌っているような、あるいは、すぐ耳元でささやいているような。とても遠い場所で鳴っているようにも聞こえたし、すぐ近くで泣いているようにも聞こえた。

「昔の人がこれを聞いたら、気味悪がっただろうな。だから人を狂わせるだとか、そんな話があるんだろう」

しばらく風の音を聞いていると、突然、彼女が振り向いて言った。

「尚志くん!」
「なんだよ、急に」
「静かに……何か、聞こえない?」
「何かって……可奈子がさっき言った、風の音くらいしか」
「風の音?」

まるで予想外の出来事に出会ったような顔が僕を見つめる。

「風の音って? 何の?」
「何の、って、さっき可奈子が僕に言ったじゃないか。風穴洞とか、風が吹き込んで音を鳴らすだとか、人を狂わせるだとか」
「何の話? 知らないわ、そんなこと言ってないわよ私」

彼女の目は、人をからかうにしてはどうも真剣すぎる眼差しのように見えた。

「さっき、海を見ながら、僕にいろいろ言ってたのは……」
「……大丈夫? ちょっと、疲れてるんじゃない?」

釈然としないまま苦笑いを返す。彼女はそれが面白く感じたのか、小さく吹き出して、また海の方を向いた。

「でも、これだけ人の少ない海岸だったら、それもこれだけ高さがあれば……五メートルくらい? 飛び降りとか、そういうこと、少なくなさそうだよね」
「急に怖いこと言うなよ」

苦笑いのまま、彼女の背中を見つめる。人を狂わせるだとか作り話をしておいて、僕を怖がらせようとか、そういう魂胆なのかも知れない。

「三年前ね」

彼女が海を見たまま、話し始める。

「ここで一人、男の人の遺体が見つかったの。胸にはナイフが刺されていて、警察は他殺事件で捜査を始めたんだけど」
「サスペンスドラマみたいだな、こんな場所でそんな事件なんて」
「ナイフの柄には彼の指紋以外ついていなくて、現場にも靴の跡は彼のものだけ、車やバイクの轍もなし」

ふと僕は、自分の車の方へ目をやった。周囲には、他の車のものらしきタイヤの跡は見当たらなかった。

「結局、自殺ってことで捜査はおしまい。新聞には発見当時しか記事は載らなかったそうよ」
「へえ、海も近いし、その気になったら首を括れそうな枝もあるのに、どうしてまたナイフなんだろうね」
「さあ、それは彼しか知らないわね」

頭を疑問符がよぎる。

「君は、どうしてそれを? いろんなことを知っていて、まるでここの近くに住んでるみたいだけど、君の実家は僕の家のすぐそばだし……」

海を見つめたまま立っている彼女の背後へ歩み寄る。すぐ真後ろまで近付いたとき、彼女が振り向き、一瞬体を震わせた。

「ああ、驚いた! いきなりそんな後ろに立たないでよ、びっくりするじゃない!」
「……可奈子、君、さっきから変だよ」
「なんだか霧が濃くなってきたみたい。帰れなくなるといけないから、そろそろ戻らない?」

彼女は僕の横をすり抜け、車に向かって歩き出した。

「可奈子、待てよ」

僕は立ち尽くしたまま、どんどん歩いていく彼女に、少し荒い声を投げかける。

「なあ、変だよ、どうしたんだよ。だいたい、なんでこんな」
「……尚志くん」

小さなため息をつきながら、彼女が振り向いて僕を見る。

「どうして、こんなところへ私を連れてきたがったの?」
「……何言ってるんだよ、僕はこんなところ」

知らない。彼女が提案するまで、僕はこんな場所のことは知らなかった。確かにそのはずだ。どうも、彼女の言っていることはおかしい。地元の人間しか知らないような話だとか、三年前の事件だとか、あげく、僕が彼女をここへ連れてきただなんて。

人を狂わせる?

「まさか、ね」
「……尚志くん?」

引きつった笑いを浮かべる僕に、彼女が、車から少しずつ僕に向かって歩み寄る。

「大丈夫? ちょっと横になった方が」
「いいから、僕に近付くな」

背中をさすりながら車へ連れ戻す彼女を、軽く突き飛ばす。その瞬間、胸のあたりに、焼けるような痛みを感じた。

「……これ」

胸に、ナイフが突き立てられている。

「なんで」

膝から力が抜け、地面に崩れ落ちる。視界に入ってきた彼女の足は素足で、多分最初に車を降りたときにはもう靴を脱いでいたのだろう。上半身も地面に突っ伏す頃に、ようやく僕は彼女の企みが飲み込めて、せめて一言彼女を罵ろうとしたけれど、もう声も出なかった。

地面に近付けられた耳に、風のささやきが聞こえた。

Fin.

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