monologue : Other Stories.

Other Stories

優しく殺して

「ほら、見て、もうほとんど感覚がないのよ」

彼女は以前のそれとは全く違った笑顔で、絶望のふちに立たされている僕を、絶望の色の混じった目で見た。右手で右足の膝のあたりを軽く叩き、うつろな目付きで、うつろな笑い声をあげる。

「冗談じゃないわ、なんなのよこれ」

僕が報せを受けて病院に着いたときには、彼女はぐっすりと眠っているように見えた。惨事と報道されるような事故に巻き込まれたなんて、当事者の口から聞いても信用できないかと思えるほど、彼女の寝顔は普通で、安らかだった。

僕が医師から説明を受けて病室に戻る、一時間弱の間だけは。

「どうして? どうして私が? 何したっていうのよ」

医師からの宣告は、彼女にとって死刑宣告に等しいものだった。

「命に別状はありません。脳にも障害はほとんど残らないでしょう」
「それじゃ彼女は、すぐに目覚めるんですか」
「目覚めはするでしょう。ただし」
「ただし?」
「落ち着いて聞いてください。彼女は」

フラッシュバックのように蘇る数分前の会話を振り払い、彼女のベッドサイドへと歩み寄る。備え付けの椅子を取り出し、それに腰かけ、彼女と同じくらいの高さの目線で、彼女を見つめる。

「聞いたんでしょう?」
「……何を?」

聞いた。言えない。そんなこと。

「落ち着いて聞いてください。彼女は」
「……彼女は?」
「もう、歩けないかも知れません」

脊椎損傷。下半身、完全麻痺。

「聞いたんでしょう?」
「……何を?」
「私、きっともう歩けないのよ」
「そんなこと」
「だって」

彼女は布団をめくり、包帯とギブスの巻かれた足、下半身が僕から見えるようにした。ギブスの上から右足の膝のあたりを叩き、泣きそうな笑顔で言う。

「ほら、見て、もうほとんど感覚がないのよ」

彼女の指とギブスが、こつこつ、と軽快な音をたてる。

「冗談じゃないわ、なんなのよこれ」
「……なあ」
「どうして? どうして私が? 何したっていうのよ」
「落ち着いて、落ち着いて聞いてくれ」
「どうして? いったい何が? 私が何を?」

だんだんギブスを叩く音が大きくなり、彼女はめいっぱいの力で右足を殴りつけようとした。

「何してるんですか!」

僕の後方から看護師が彼女に飛びつき、慌てて取り押さえる。

「怪我をしたんだから、こんなことしちゃだめでしょう」
「……何が怪我よ! 全然痛くないじゃないの!」

隣の部屋にも聞こえるんじゃないかという大声で、彼女が叫ぶ。そのまま布団に突っ伏して、今度は泣き声を上げはじめた。

「これからのことについて、ゆっくり話し合いましょう。すぐに先生がきますから」

そう言って看護師は部屋を出ていった。去り際に僕を少し睨むような目で見て、彼女から目を離すな、とそう言っているように見えた。

「あのさ」

力なく、弱々しい声で語りかける。彼女は泣き止まない。

「もう、歩けないかも知れません」

医師の言葉が蘇る。

「多分、リハビリとかすれば、すぐに元通りになるよ」

彼女は泣き止まない。

「そうすればまた陸上だってできるし、マラソンだってすぐに」

彼女は泣き止まない。

「そりゃちょっと苦しいかも知れないけど、君ならきっと」
「無理よ」

布団に顔を伏せたまま、くぐもるような力強い声が言う。

「無理よ」
「どうして、そんなこと」
「だって、こんなの初めてだもの」
「……怪我なんて、幾度となく経験してきたじゃないか」
「したわよ、いろんな怪我したわよ。アキレス腱だってやったし、骨折だって二回経験あるわ。肉離れなんてもっとよ。小学校のときからだもの」
「じゃ、今度だってきっと」
「わからないの?」

顔を上げて、その目が、僕を哀れむように見る。

「言ったでしょう? 痛くないのよ」

言葉が、出ない。

「痛くないの。足が、なくなったみたいなの」
「きっと、麻酔が効いてるんだよ」
「そんなのじゃないわ。これは、そんなのじゃない」

彼女の顔は、今までに見たどんなものよりも痛々しかった。

「お願い……」

僕の服にすがるようにして再び泣き崩れた彼女は、何度も何度も繰り返し僕に懇願した。僕は最初は首を横に振り続けたが、彼女の悲痛な声に、心を動かされずにはいられなかった。

「おい、何してるんだ!」

数分後に現れた医師が見た、彼女の首を絞める僕と、彼女と、どちらが絶望の表情をしていただろうか。

「していただろうか……と、こんなものでどうだろう」
「へえ、悲劇のマラソンランナーとその恋人、か。悪くないな」
「主演は、こないだ入団した子にやらせてみたらどう?」
「ああ、彼女のイメージに近いかもね。次回の公演はうまくいきそうだな」
「僕にできることは脚本だけだから、あとは陰から応援させてもらうよ」
「ゆっくり高みでどうぞ。それにしても」
「……どうかした?」
「いや、生々しいな、と思って。誰か身近にこんな経験者がいる?」
「まさか」

僕を見る彼から目をそらし、窓から見える、外を走る国道に目をやる。彼女が日課として走っていたトレーニングコース。

「もう、歩けないかも知れません」

蘇る言葉。

「まさか」

僕はきっと、力ない笑みを浮かべた。

Fin.

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