monologue : Other Stories.

Other Stories

コーヒーの後に

「僕、人を殺したことがあるんです」

コーヒーを飲んで一息ついたその瞬間に、彼はそんな台詞を口にした。

当時僕は大学院に通いながら、教授の研究室で雑用を引き受けて日銭を稼いでいた。研究データの整理だとかファイルや手紙の整理、雑用としか呼べない仕事を引き受けて、一日数千円の日当をもらっていた。

「ええと、ごめん、君、なんて言ったかな」
「斉藤です」

ある日、いつも通り教授の部屋で雑用にいそしむ僕に、教授の受け持ちの学生が相談を持ちかけてきた。いや、本人は相談のつもりなどではなかったのかも知れないけれど。

「あの、伊藤さんですよね? 社会心理学専攻の。僕、三年生の斉藤って言います」

ちょっとコーヒーでも飲みませんか、お話したいことがあるんです、と彼は、僕を駅前の喫茶店まで連れ出した。そして、言ったのだ。

「僕、人を殺したことがあるんです」

あまりに唐突な告白に一瞬眩暈を覚える。心理学を勉強したがるやつなんて大抵どこかいかれてやがるんだ、と親父が言っていたのを思い出す。

「ええと、ごめん、君、なんて言ったかな」
「斉藤です」
「そう、斉藤くん、今なんて?」
「人を殺したことがあるんです。いや、これは正確じゃないかも知れないけど」

僕はコーヒーカップの中の真っ黒な液体に気持ち程度の量の砂糖を加えて、スプーンで丁寧にかきまぜてから少し息をついた。

「その、どうしてそんなことを僕に?」

自分の質問がとてもありふれているような、彼の発言と同じくらい突拍子もないような、どちらでもあるような気がして、僕はまた眩暈を覚える。

「誰かに言わなきゃいけない気がして、でも友達や家族は近すぎる存在のような気がして、だからその、伊藤さんに」

だからってどうしてまた僕に、とは言わずに、コーヒーをすすってから僕は、詳しく話してみてくれないか、とだけ言った。

「殺したっていうのは、首を絞めたとか胸を刺したとか、そういうことじゃなくて……表現としては死なせてしまった、という方が近いのかも」
「意図的にではなくて、過失だったということ?」
「いや、でも死なせるつもりだったのかな。どうなんだろう」

日本の法律では当人にその意思がなかったにしても、誰かを死なせてしまうことは、過失致死などという名前で罪と規定されている。

「でも、警察のお世話になったわけじゃないんだろう?」
「もちろん、そんな後ろ暗い経歴なんてありませんよ」

あるのは思い出だけで、と付け加えてから、彼は何が彼の過去にあったのか話し始めた。

それはもう十年以上前のことで、具体的な日時や自分が何歳だったか、なんてことは思い出せないのだけれど、それが確かに起きたことだけは覚えている。どうして今まで誰にも話さなかったのか不思議に思えるくらい、とても強いインパクトを自分に与えた出来事だった。

その日僕は塾へ行くため、いつも通る河川敷の土手を、小石を蹴りながら歩いていた。まだ当時はこの辺りも今ほど開発が進んでいなくて、春には土筆やたんぽぽが、夏にはいろんな草花が摘めるような場所だった。そのときはよく晴れていたけどもう日は傾いていて、目に映る何もかもが橙色だったことを覚えている。

その風景の中に、その男はいた。

「ぼく、ちょっといいかな」

川をまたぐ橋の下、浮浪者でも住んでいそうな場所に、その男はうずくまっていた。額から普通じゃない量の汗を流しながら。

「おじさんなあ、けがしてて動けないんだ。お医者さんを呼んでくれるかな?」

その男は普通のサラリーマンのようなごく平凡な格好をしていたけれど、明らかに普通とは違う何かがあった。今思えばきっと彼は、任侠とか、そういう世界に生きる人間だったのだろう。彼は下腹部を押さえて、苦しそうに息をしていた。

「な、頼むよ。お菓子あげるからさ。この場所へ、ちょっと電話かけてきてくれよ」

彼は名刺大の紙を僕に渡し、目をつむって静かに息をした。僕は紙に書かれた場所へ電話するため、公衆電話を探した。お菓子が欲しかったからとかそういうことじゃなくて、困ってる人は助けなきゃいけない、と考えていたからだと思う。

河川敷を走り、橋を渡り、家から近いたばこ屋の店先の公衆電話まで、全力で走った。息を切らしながら受話器を取り、渡された紙の場所へ電話をかけようと……して、僕は自分の顔が真っ青になっていくのを感じた。紙が、ない。

まずポケットを探って、辺りを見回して、少し道を行ったり来たりして、結局元の場所へ引き返すことにした。帰り道でべそをかきながら、どこかに紙が落ちていないか探しながら。そして元の橋の下へ戻ると、辺りには人だかりができていた。

「翌日の新聞に載ってましたよ、彼のことは。暴力団関係者、抗争に巻き込まれて死亡、みたいな、確かそんな」

彼は少し泣きそうな顔で僕を見たが、すぐに目をそらした。

「彼は、僕がちゃんと医者を呼べたら死ななかったかも知れません」
「…………」
「あるいは、僕以外の誰かに頼めていたら、なんて」
「……結果は変わらなかったんじゃないかな」

僕はコーヒーカップを口につけたまま、小さな声で言った。

「誰にも、どうにもできなかったんじゃないかな。それだけ彼は重傷だったんだと思う。君は、自分を責めすぎだと思うよ」

彼は呆気にとられた表情をしていたが、やがて照れ隠しのような笑みを浮かべて言った。

「ありがとうございます。ちょっとだけ気が楽になりました」

それだけ言って、二人は黙ってコーヒーを飲んだ。

やはり彼は相談のために僕を呼んだのだろう。身近な誰にも言えない秘密を、大学で少しだけ接点のある僕に打ち明けることでどうにかしたかったのだろう。日銭のための雑用の仕事だと思っていたが、こういう役を引き受けることで誰かのためになるなら、悪くはないもんだ、と僕は、心の中で密かに思った。

「実はそれを踏まえて、というか、ここからが本題なんですけど」

彼が最後にこんなことを言い出さなければ。

Fin.

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