monologue : Other Stories.

Other Stories

最期の日に夕食を

ビルの屋上から見える街並みは、深夜だというのに昼間のそれより明るくも見えた。隣のビルも正面のビルも、道路の上も歩道の花壇も、何もかもが人工的な光で照らし出されている。風はほとんどなくて、気温と同じくらい生温くなった缶ビールを一気に喉に流し込む。

「だいぶ醒めてきたね」

隣から聞こえる声はまだ酔っているようで、舌足らずな語尾が可笑しくて吹き出す。

「何がおかしいのよ」
「だって斉藤さん、全然醒めてないじゃないですか」
「そんなことないわよ」

フェンスにもたれかかってふてくされる彼女の顔も、普段のそれとは違うように見える。

「お酒、弱いんですか?」
「そんなことないって言ってるでしょ」

それが子供のような言い訳に聞こえて、また小さく笑う。彼女はますますふてくされた表情になって、手に持ったビールを二口三口飲んだ。

「醒めたんなら、そろそろ下に戻りますか? あまり長く席を空けて心配されるのも悪いし」
「もう少しここにいるわ。どうせ宴会場はめちゃくちゃだろうし、あんなところに戻ってもやることなんかないわよ」
「でも今日の打ち上げは、斉藤さんが主役じゃないですか」
「藤井くん」

彼女が真剣な眼差しで僕に顔を近付ける。アルコールの臭いは弱くなく、目付きも普段とは明らかに違っていた。

「私は、今回の仕事の手柄を独り占めするつもりはこれっぽっちもありません」
「わかってますよ。でも、企画も進行も斉藤さんが……」
「藤井くん」

彼女がもう一歩詰め寄る。少し驚いて後退りする。

「企画の立ち上げなんて大したことないわよ。少なくとも私はそう思ってます。プロジェクトリーダーなんて神輿なんだから、優秀な人材が担いでこそ、わかる?」
「あ、はい」
「わかればよろしい」

そう言うと今度はにやついた表情になって、ふいに大声を上げて笑い始めた。夜の空に声がこだまし、闇の中に潜む何かに吸い込まれて、また辺りは静けさを取り戻す。彼女は黙ってフェンスにもたれかかり、正面のビルを眺めている。

「藤井くん」

彼女と同じようにフェンスにもたれかかり、正面のビルを眺める僕に、彼女が呼びかける。

「はい」

正面のビルの五階あたりでは、窓際の大きな書斎机の脇で情事か、あるいはセクハラの真っ最中だった。気恥ずかしいとか情けないとか、多分そんな感情から目を背けた。酔っていた僕の頭では、理由なんてはっきりとはわからなかったけれど。

「明日が人生最期の日だったら、夕食には何食べる?」
「は?」

突拍子もない質問に、間の抜けた返答。

「いや、なんとなくね」

彼女はさっきよりも幾分冷静な表情で、ビールを喉に流し込んだ。横顔にはなぜか寂しさが見え隠れした気がするけれど、それも僕の頭では不明瞭なことだった。

「えっと、ラーメン」

なぜか少し驚いた表情で、彼女が僕を見る。

「なんで?」

口元からビールの缶を離す。上唇の端に、小さな泡が付いていた。

「なんでって、その……」

正面のビルに目をやると、さっきの書斎机の脇では、今度は痴話喧嘩のようなものが展開されていた。女性が少し年上の男性――多分上司だろう――を怒鳴りつけて、彼がその弁解をしているだろうことが手に取るようにわかった。

「えっと、食べに行きませんか。ラーメン」

彼女は一瞬呆気に取られた表情だったけれど、すぐに満面の笑みを浮かべて、さっきと同じくらい大声で笑い始めた。

「面白いわ、君」

そう言って、階下への階段へ向かう彼女。

「先に戻るわ。適当に戻っといで」
「あの!」

扉を開けて階段へ足を伸ばす彼女を、さっきよりも随分大きな声で呼び止める。僕の頭が麻痺していたのは、アルコールのせいか、何か他の理由で火照っていたのか。

「何?」
「……あの、最期の日、僕と夕食どうですか」

声を上げずに、少し優しく笑い、ささやくように言う。

「そういうことは、お酒の入ってないときに言ってね」

彼女はすぐに階段を下りていった。少しだけ風が吹いて、街路樹を揺らす音が聞こえる。枝のざわめきが止むとまた静けさが戻り、僕は大声で笑った。

「じゃあ、また今度」

頭は少しずつ働き始めていた。

Fin.

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