monologue : Same Old Story.

Same Old Story

表情喪失

「一体、何だっていうんだこりゃ」

満員電車に揺られながらぶつぶつとつぶやく。通勤ラッシュの混雑具合は相変わらずだが、僕にはこれがいつも通りの、僕の日常の一部だとはとても思えない。そうだ、今朝目が覚めたときから僕は、きっとどこか別の世界に紛れ込んでしまっているのだろう。

「どうなってんだよ全く」

ちらと左に立つ乗客に目をやる。右に立つ乗客、目の前に座る乗客、ぐるりと頭を回して車内全体を見渡す。どこにも、感情を感じさせるものが見当たらない。

「何でのっぺらぼうばっかりなんだよ」

朝、目が覚めて出勤の準備を終え、玄関を出たその瞬間、犬を散歩させる主婦らしきのっぺらぼうに出くわした。彼女は僕の方へ頭を下げ、どこからかおはようございます、と声を出したが、頭部の前面、髪の毛のない場所は、真っ平で何のパーツも見当たらなかった。

凹凸すらない表情の人間が街中に溢れ、いや、表情のある人間は一人にも出会わなかったから、皆のっぺらぼうになってしまったのかも知れない。けれどそのことをおかしいと思う者はいないのか、誰もそのことには触れないようだ。あるいは、そのことをおかしいと思うのは僕だけなのだろうか。鏡に映る僕の顔はいつも通りだ。

「どいつもこいつも、平坦な顔しやがって」

ぶつぶつつぶやく僕に、誰かが話し掛けた。目の前に座る乗客が僕の方へ顔を向けているから、どうやら彼らしい。動かす口がないから誰の発言かも不確かで、彼が男かどうかも確実かと言うと怪しいけれど。

「あなた、もしかして私がのっぺらぼうに見える?」
「……ええ、あなたどころか、電車中全員がね」
「そうですか……もしかして、近所の方なんかも?」
「ええ、そうですけど。何か知ってるんですか?」

その男は顔をうつむけ、少しした後に、また顔を上げて言った。

「大丈夫、すぐに慣れますよ」
「どういうことかさっぱりわからないんですが。何かご存知なら教えていただけませんか」
「さあ、私にもよく……ある日起きたらそう見える、それだけしか」
「まさか、あなたも?」

首を傾け、何かを考えるような仕草。

「ええ、まあ、だいぶ昔ですけど」
「どういう原因があってこんなことになってるのか、ご存知ではないですか」
「さあ、僕には……ほら、一時期話題になったでしょう。没個性だの無個性だの、関係性とか協調性に終始していわゆる我がなくなっているような人の話が」
「ええ、それが何か」
「そんなものじゃないでしょうか。きっとあなたはよっぽど個性的だから、そうでない人たちの区別がつかなくなって、顔がわからなくなってしまったんでしょう。どっちに原因があるか私にはわかりませんが」
「はあ、そういうものでしょうか」

電車が駅に着き、人が流れる。

「あの、あなた、今は他の方の顔が」
「言ったでしょう、すぐに慣れますよ」

彼は少し苦しそうな声で僕に言ったが、その感情は読み取れなかった。彼には、表情がなかったからだ。

会社に着いてからも、上司や同僚、取り引き先の専務、憧れの女の子、皆表情がなく区別すら付かない状態だった。僕は誰に相談することもできず、ただ今朝会った男のことを考えていた。

彼の顔もわからず名前もわからず、一人うなされる日々が三ヶ月ほど続いた朝、また異変が起こった。犬の散歩をする主婦の顔が見えたのだ。

「……治ったのか、俺は」

通勤電車はいろんな表情の人間で溢れ、三ヶ月餓えた人の表情に嫌というほど触れることができた。半ばにやけ顔で吊り革につかまる僕に、隣に立っていた男が話し掛けた。

「その様子だと、戻りましたか」
「……あなたは、僕に教えてくれた」

男が笑顔でうなずく。

「おかげ様で。あなたがすぐに慣れる、と言ったのはこのことだったんですね」
「まあ……」
「あのときは勇気付けられて助かりました、そうでなかったらどこかでくじけて、精神病院にでも入っていたでしょう。原因もわからずにそんなところへ入ってしまうなんて、考えただけでぞっとする」
「それだったらどんなにか良かったでしょうね」

寂しそうな表情で電車の外へ目をやり、彼はため息をひとつついた。

「どういうことでしょう?」
「つまりきっと、あなたも仲間入りしてしまったんですよ」
「その、無個性とかそういう中へ?」
「ええ。表情の読み取れないのっぺらぼうになってしまった」

電車が駅に着く。出口へ向かう人たちの表情は、ある者は苛立ちを隠せず、ある者は苦痛のような表情を浮かべる。

「……そんなことはないでしょう、皆あんなに個性的な表情を持って、自分だけの人生を送ってる。どこがのっぺらぼうなんですか」
「だったらあなたは三ヶ月前、どうして私の表情が見えなかったんでしょうか」

彼はそれだけ言うと、僕を残して電車を降りた。その後姿を僕は、ぼんやりと見つめるだけだった。

会社に着くと、上司も同僚も誰もが、それぞれに個性的な表情を作って仕事にあたっていた。

「……どこが無個性なんだよ」

ふてくされながら仕事につくと、向かいのデスクで仕事をしていた後輩が、僕の顔をじっと見つめていた。

「先輩、今何ておっしゃいました?」
「ん? ああ、別に……無個性とか没個性とか、そういう話だよ。のっぺらぼうの話だ」

冗談めかして笑いながら言うが、彼の反応は薄い。

「先輩、のっぺらぼうって」
「……まさか、お前」

手にした書類を落とすように机に置き、自分の顔をなでる。

「皆が、俺のことが、のっぺらぼうに見えるのか?」
「そうです、先輩……これ、どういうことなんでしょうか」

三ヶ月前、あの男の読み取れなかった感情が、文字通り手に取るようにわかった。僕の今の表情は、なんて力のない愛想笑いだろうか。

「……大丈夫さ、すぐに慣れるから」

僕に言えるのはそれだけだった。

Fin.

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