Days - Log // Fabrication
日々創作。
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2003-08-21 Thur. 嘘日記
「恋愛小説なんて書くもんじゃないよ」
古い顔馴染みの物書きが、少しだけひきつった苦笑いを浮かべながら言う。彼が言っているのは僕の一番新しいやつのことで、その一番新しいやつというのは、まぁつまり恋愛小説なんだけれども。
「なんて言うか、その、いろんなものが滲み出てしまうから」
まだひきつった表情のままの彼を見ながら、僕は割りと自然な笑顔で答える。
「そうかな。どんなものでもそうだよ」
そうかな、うん、そうだろうな、と彼が小声で言う。彼が過去に恋愛小説で苦い思いをしたのかは知らないが、ずっとひきつったままの表情の裏側に、何か思うところがあるであろうことは容易に読み取れた。それがいつのことかは想像もつかないことなのだが。ともかく、彼が恋愛小説に対して拒絶反応を示していることはよくわかったし、次に僕が言うべき台詞もなんとなくわかった。
「いや、たまにはいいものさ」
2003-08-28 Thur. 嘘日記
「君は Web サイトという場所で、表現の自由を手に入れた」
突然メッセンジャーでコンタクトを取ってきた男は(本当に男かどうかだなんてわかりはしないのだけれど、ともかくそいつは)、大体こういうようなことを言った。
「だが、君のその自由な活動 ― 君が創作と呼んでいるそれだが ― それには本当に価値があるのかい? ネットワークを介したコミュニケーションではあるけれど、まだそこを仮想の世界と認識して新しい常識で他者と接するには随分と時間がかかる。好意には好意で返す、良くも悪くも日本人的な社交辞令に埋もれて、自分のそれ ― そう、君が創作と呼ぶそれだ ― に過剰な自信を持つようなことにはなっていないと言えるか?」
どうやらそいつは純粋に僕の批判をしたいか、そうでなければ、僕の価値観を揺るがしでもして、ただ悦に入りたいだけのようだった。
「さあ、納得のいくような、明快な根拠と君の考えを聞かせてもらいたいものだ。君は、自分自身の活動に価値があり、しかもそれは他者に認められ得るレベルにまで達していると思っているのかい?」
そいつはそれきり黙りこくって、僕の返事を待った。
「どうでもいいよ、そんなこと」
あとは何も言わず、僕は PC の電源を落とした。
2003-09-06 Sat. 嘘日記
「それでね、彼、私が掲示板に書き込みしたって言い当てるの」
くだらないことだと思いつつも、感心したふりをして聞く。嬉しそうに話す彼女の姿を見て、種明かしが無粋なことだと思ったからかも知れない。いや、間違いなくくだらないことなんだけど。
「ね? 名前書かないで書き込みしてるんだよ、すごいでしょ?」
掲示板というものに書き込みをすると、名前を書き込まなくても書き込みの時間と書き込んだ人のリモートホストが記録される。以前に書き込んだ誰かであればそこで判るし、そうでないとしたって、書き込みの内容によっては誰か推察することなんて全然難しくない。ひょっとしたら二・三人に当てずっぽうでカマかけてるかも知れない。
「本当すごいんだから。尊敬しちゃう」
どちらにしろ彼女の言う彼は特別すごくはない。それを鼻にかけて威張るなら、むしろ器の小ささがすごい。
「ねぇ、なんとか言ってよ」
苦笑いを浮かべたまま、僕は尋ねた。
「種明かし、しようか?」
2003-09-15 Mon. 嘘日記 「僕は日記を書かない」
「"人のふんどしで相撲を取るなんて汚い!" ……頭悪いのかな、こいつは」
姉は軽くため息をつくと、諭すように、ゆっくりと言った。
「あんた、まだそのサイト見てるの? くだらないとか時間の無駄とか言ってなかった? 見てると腹がたつとか」
モニタから目を離さずに言う。
「でもさ、ホラーとかミステリー映画、悪役の動向が気になるから見るって部分もあるでしょ。こいつ、これからどんな酷い目に遭うんだろう、とか」
言い訳くさいな、と自分でも思う。そしてきっと、姉は僕以上にそう思っていることだろう。
「なんて言ってもあんたの負けよ。どういう理由だろうと、結局はその人の日記に釘付けなんだから。悪役だとしたって、あんたよりいくらか大物だわ」
反論できないまでにやり込められて、言い訳もせずに黙り込んだ。
「悪役でも頭悪くても、その文章を読みたがってる人がきっといるのよ。不本意だろうけど、あんたもその一人になってるんだしね」
もしかしたら姉の言うとおりかも知れない。僕はこの管理人の動向、つまり彼の人生、それをつづった文章、それの中毒になってるのかも知れない。もしかしたら、僕は彼に敵わないんじゃないかと、そんな思いも交えながら。だから僕は、日記を書かない。
2003-10-15 Wed. 嘘日記 「間違いじゃない」
「間違ってたんだよ、根本的に」
薄暗いが気品の漂う、割高そうないかにも小金持ち向けのバーのカウンターで、その場の雰囲気に似つかわしくない声の張り上げ方で、スーツの男が隣の男にぐちをこぼす。
「間違いだったんだ。僕は医者になんかなるべきじゃなかった」
男のグラスが、溶けかけた氷を揺らしてカラカラと鳴る。
「医者になれば、病気の人を救えると思った。僕の親父みたいな、ね。でも、間違いだった。救えない人の方がはるかに多いんだ。僕が一人救う間に、病気ってやつは五人も六人も殺しちまう。ときには指をくわえてそれを見てるんだ。あと何ヶ月、悪くすればあと何週間でこの患者は死ぬ、そう考えながら作り笑顔を見せるんだ」
隣の男が、スーツの男の肩を軽く叩く。
「君にも不可能なことはある。僕にだって当然あるし、神様にだってあるかもしれない。全部、なるようになるのさ。それはそうなるように、きっとずっと前から決まってるんだ」
それに付け足して、でも、とつぶやくように言い、少し間を置く。
「そう思ってもあきらめていないから、だからまだ医者を続けてるんだろう? それはきっといつか、誰かのためになるんだよ」
2003-10-31 Fri. 嘘日記 「持ってます」
「ねえ、聞いた? 三組の上原、ホームページ持ってるんだって。それで、なんか自分で作った詩とか載せてるんだって」
「へえ」
「でさ、今日見てみたの。そしたら、チョーキモイんだって! あの顔でアレ言うかぁ? ってカンジ! もうネットカフェから繋いでるんだからわらかすなっつーの」
「へえ」
詩も、小説も、そんなに変わらない。とても言えない、「僕もそれ持ってます」なんて。
「でもさ、あれだよね……ホームページとか作れるって、なんていうか、パソコン強いっていうか……見るだけじゃないんだよね」
「はあ」
「ちょっとだけ、だけど、そういうの作れるの羨ましいかなあ、って。ちょっとだけね。人に見せたいものが自分にある、っていうことなんだしさ」
「はあ」
作れるし見せたいものもあるけど、今さら言えない。「僕もそれ持ってます」なんて。
2003-11-10 Mon. 嘘日記 「傘と僕の距離」
とにかく、傘を持っていなくて良かった。びしょ濡れになることができて良かった。すれ違いざまに故意かどうかはともかく、よくお似合いの派手な傘を傾けたおばさんに、さっきかきあげた前髪をまた下ろされるくらいに水滴をお見舞いされた。
「あら、ごめんなさいねえ」
ちっとも謝る気のなさそうな目で見られて、僕は情けない笑顔と会釈を返した。何のためかは、僕自身もよくわからない。
「あらあ、びしょ濡れじゃないの」
続けて彼女は、どこかから空気の漏れたような間の抜けた声で、今さら間の抜けたことに気付くふりをした。その仕草は相手の神経を逆撫でするためだけにつくられたもののようにも思えた。
とにかく、傘を持っていなくて良かった。そんなことを気にせずにいられて良かった。
「いえ、傘を忘れた僕が悪いんですから」
僕は渾身の力を込めて、目の前のおばさんを殴り飛ばした。
2003-11-16 Sun. 嘘日記 「手紙」
やあ、久しぶり。手紙を書くのは半月ぶりかな。そっちはどうだい? こっちは、ここ数日でめっきり冷え込むようになったよ。もうすっかり冬だ。
最後に会ってからもう三ヶ月か。いろんなことが変わったよ。本当に、いろんなことがね。
まず、酒をほとんど飲まなくなった。どうしても寝付けない夜なんかは一杯やることもあるけれど、睡眠薬を飲むよりはよっぽど体にいいだろう。少なくともおれはそう信じてる。
誰かを殴ったり傷つけたりすることもなくなった。通りを歩いてて肩をぶつけて、何も言わずに歩き去ろうとするやつには、そりゃちょっとは腹が立つけれど、せいぜい睨み返すくらいで手を出すことはない。本当だよ、信じられないかも知れないけれど。
それと、これが一番信じられないかも知れないけれど、食事に気を使うようになった。健康ってものに関心を持ったんだ。三食全部ってわけにはいかないが、夕飯は毎日自炊してる。まさかおれが! なんて、自分が一番驚いたよ、こんなことをするなんてね。どれも君の作った料理には遠く及ばないけれど、悪くない味だと自分では思ってるよ。
いろんなことが変わったよ。本当に、信じられないくらいに。ここ数年で、一番体の調子がいいと思う。これは、建前とか、調子のいいことを言っているわけじゃなくて。おれは、変わったんだと思う。少しずつだけど、いい方向に。
だから、なぁおれたち、もう一度だけやり直せないだろうか?
2003-11-26 Wed. 嘘日記 「ゴミ溜めの中へ」
「やっぱり、わかりやすい方がいいのかなぁ」
「わかりやすさ以外に、何を優先しようってんだよ」
「その、なんていうか、文学性とか、そういうような」
「今時そんな固い物読みたがるやつなんていないよ。わかりやすくて、泣ける。これが一番受けるんだよ。本屋でも行ってみろよ、そんなのばっかりだろ」
「そうかなあ……」
「文学性だってエンターテイメントのひとつだろ。受け手がどう評価するか、しかないわけだし。それに、今はそういうのは流行ってないしな」
「そうかなあ……」
「埋もれて有象無象になっちまうくらいなら、ちょっとくらいやりたいこと曲げるのも仕方ないだろ。頑固一筋だって流行りゃしないよ」
「その、自分から "有象無象" になるようなことにはならない?」
「さあ、どうだか」
2003-12-27 Sat. 嘘日記 「手紙の続き」
この手紙が君のところへ届くことを願って
寒い日が続いてるけれど変わりはないかい? 君はあまり丈夫な方じゃないから、風邪でもひいてやしないかと心配してるよ。
昨日、古い友達に会う機会があって、君が最近どうしてるかなんて話を聞いた。詮索なんかするつもりじゃなかったんだけど、つい、話の流れで。気を悪くしたなら謝るよ、だからこうして正直にここへ書いているんだから。それで、その、君の近況を聞いて、ひとつの決断をするに至った(どんな過程をたどったかなんて聞かないでくれ)。やっぱり、君とのことはこれっきりにしようと思う。これが、最後の手紙だ。
ようやく来ない返事を待つ生活ともおさらばできる。昨日までのそれが無駄になったとは思わないけれど、明日からはもっと有意義に生きられる気がするんだ。
それで、最後に、聞いておきたいんだけれど、やっぱり君にとっても気分の良くないことだろうから、無理に返事をしてくれとは言わない。この手紙を破り捨てておれへの呪いの言葉を吐いても構わないし、何もなかったと知らない顔をして忘れてくれても良い。だから、ひとつだけ、自己満足だけれど書かせてくれ。
おれは、君にとって何だったんだい?
手紙を投函したあと、その手は震えて、けれどそれは北風の寒さにではなくて、ただ心のどこかを少し締め付けて、やがておさまった。
2004-01-06 Tue. 嘘日記 「誰も知らない」
酔いがまわって舌がもつれて、それでも言葉は止まらずに次から次へと口をついて出てくる。
「私ね、あなたや皆が思ってるようないい子じゃないのよ。きっと、あなたたちの誰が想像するよりも汚くて惨めな女なのよ」
彼女の言葉はいかにも酔っ払いのそれだったけれど、それでもその言葉の裏には、思い詰めた告白をするときの決断に近いものが聞いてとれたような気がする。
「皆世間知らずなのよ。私のような女を捕まえて持ち上げて」
「でも君は、実際よくやってるじゃないか。どこがそんなに悪い女なんだ?」
彼女は電柱に寄りかかり、確かに性悪女の笑みを浮かべて言った。
「そんなことあなたに教えるわけがないじゃない。私がだめな女だっていう理由は、私だけが知ってればいいの」
彼女の唇が、僕の次の言葉を遮った。
2004-01-26 Mon. 嘘日記 「力なき僕の姿」
白い息が、うねりを作りながら上昇する。夜の闇に溶けながらそれは、僕の鼻の頭を少しだけ湿らせた。街頭の光も弱くなっている、ように見える。やがて全てが、夜に飲み込まれてしまうのだろうか。身震いをする。
ふいに場違いな音を鳴らす携帯電話。ポケットから取り出したそれは、頼りなげな光で文字を浮かび上がらせて僕に伝言を伝えた。
『今でも、彼女を信じてるの?』
しばらく見つめているとその光は消え、さっきよりも濃くて重い闇が僕にのしかかる。僕を押し潰してしまいそうな、夜の重力。
「当たり前だよ」
僕の一言は弱々しく、けれど遠くまで響いたようだった。
2004-02-16 Mon. 嘘日記 「もう一度」
やあ。変わらないでやってるかい。
もう君へ何か文章を書くことはやめようと思ったんだけれど、それでもどうしても君のことを考えてしまう。心の奥底にとどめておいても何もならないし、こうして紙に書き連ねるだけならどうということでもないような気がしたんだ。少なくともおれが、この文章を手紙にして君へ宛てて投函しようと思うまでは。
だいたい、いつだっておれは
ふいに衝動にかられて、書きかけた手紙を破り捨てる。それがくだらない行為に思えたからではないような気がした。まるで自分が、何か取り返しのつかないことに足を突っ込みかけているような、そんな。
本当のところ、何かそういうことを考えている瞬間だけ、おれは自分が誰かのために居られるような、そんな気がしてるんだ。
おれの言いたいことがわかるかな。要するに、君に会いたいってことなんだよ。
2004-02-22 Sun. 嘘日記 「雨上がり」
少し湿った道を、少し浮かれた足取りで歩く。雨は知らない間に降って、知らない間に止んでいた。水溜りを軽く飛び越える。
「雨が好きって、変わってるよね」
「雨っていうか、雨上がりが好きなんだよ」
アスファルトの濡れた匂いを嗅ぐと、不思議と幼かった頃のことが頭に浮かぶ。何がどうしてなのかわからないけれど、当時の僕は、とてつもなく幸せな気分でいたような気がする。
「湿気好きじゃないな、私は」
きっとこの空気は、そのときのことを思い出させてくれるのだろう。わけがわからず浮かれて、少しだけ、僕は幸せな気持ちになれる。
「たまには悪くないじゃないか」
目の前を走る車が、水溜りを踏んづけて小さな飛沫をあげる。小さな小さな水が宙に舞う。僕はきっと、少しだけ微笑んでいた。
2004-03-14 Sun. 嘘日記 「想い出の人」
「へえ、彼氏いたんだ」
「うん。あまり皆には言ってないんだけどね。うまくいってないし」
「そうなんだ。どんな人?」
「ぶさいく。全然カッコ良くない」
「はは、酷い言われようだな。じゃ何で付き合ってんの?」
「すごく背が高くて。190cm くらいあるのかな」
「へえ」
「背が高い人が好きなの」
少しはにかんで話す彼女を見て僕はふと、待合室にも入れず、ずっと遠くから何か面白そうなものを眺めているような、なんだかそんな気分になった。
「僕も、もう少し身長あったら良かったかな」
「えー、そんなことないよ。結構モテてるんだよ」
彼女の無邪気な笑顔には何も責めるべきところは見つからなかったけれど、だとしたら僕は、何に対して惨めな想いをしていたんだろう?
「……そっか」
「そうだよ」
彼女は今、どうしているだろう?
2004-03-25 Thur. 嘘日記 「二人の距離」
「もうだいぶ暖かいわね。どう? うまくやってる?」
「ん、まあ、問題なくね。まだ寒いよ」
少しだけずれた会話を交わしながら、僕と彼女は馴染みの喫茶店でコーヒーを飲む。もう、何年も変わらない二人の関係。距離。
「なあ」
「なに?」
僕の声に、彼女が上目遣いでこちらを見る。
「なんで俺たち、結婚しなかったんだろうな」
一瞬間をおいてから、皮肉のような気持ちがこもったのだろう、彼女は微笑みながら言った。
「自分の胸に手をあててみたら?」
「…………」
僕は何も言わず、窓の外に目をやる。
「……ごめんなさいね、茶化すつもりはないんだけど」
「わかってるよ。妙なこと言って悪かった」
彼女がコーヒーカップを皿に乗せる音。
「そうね……人生ってうまくいかないことばかりだわ」
僕は何も言わず、窓の外に目をやったまま頷いた。
2004-04-01 Thur. 嘘日記 「エイプリル」
目が覚めたら、もう窓の外は真っ暗だった。寝違えたのか、少し痛む首をさすりながら、携帯電話の液晶に目をやる。不在着信も、新着メールもなかった。
「……なんだ」
彼女から、訂正や謝罪の言葉はなかった。嘘では、なかったのだ。
「……タイミング考えろよな」
目が覚めたら「嘘でした」なんて落ちだろう、そう考えて去っていく彼女を引き止めることはしなかった。四月馬鹿に必死になる姿なんて見られたくないなんて、なんて小さくて情けない虚栄心だったんだろう。何を後悔してももう遅いのだけれど。
「四月一日、フラれました」
日付は午前一時と少しをまわる。彼女の言葉が脳裏をよぎる。
「もうこれっきりだから。やり直しはないからね」
あれは、最後のチャンスを与えようとしていたのかも知れない。彼女なりに猶予を与えたつもりで、いや、どちらにしろもう手遅れなのだけれど。
「ハッピー・エイプリルフール」
続けて、馬鹿は僕だけです、とつぶやく。
2004-04-13 Tue. 嘘日記 「電車を待ちながら」
「少し、話しませんか」
彼女が不意にそう言うので、僕はホームへじわじわと寄ってくる電車を待つのをやめ、ベンチの空いている側へ腰を下ろした。
「何か、話したいことでもありましたか」
思いもかけない言葉に戸惑っていたからだろう、僕の言葉は酷く丁寧で、不器用なものに聞こえた。僕が彼女だったら吹き出していたかも知れないが、彼女は真面目な顔のままだった。
「特に、何ということもないのですけれど」
また彼女も慣れない提案のせいか、少し不自然な話し方だった。僕は吹き出したりはしなかったけれど。
「少し、くだらない話でもしませんか」
彼女が、初めて
2004-05-03 Mon. 嘘日記 「思ひ出」
「何これ」
「何って、見たらわかるじゃん。プリクラだよ」
僕の答えに納得がいかないような表情で、彼女は手に取ったそれを見つめ続ける。まさか知らないわけでもないだろう、なんて、僕は言わなかった。
「こういうの、嫌いだと思ってた」
「まあ、あまり好きではないよ」
「誰? この子」
窓から差し込む光が、少しずつ薄く弱くなっていっているような気がした。時計は午後四時を指す頃だろう。
「大学入った頃に付き合ってた子」
部屋掃除はなかなかはかどらない。整理好きな彼女の力を借りても。僕の部屋はいろんな物が散在しすぎていた。例えば、ずっと昔の思い出とか。
「なんで別れたの?」
僕は答えない。
「こういう子、タイプなんでしょ。知ってるよ。なんで結婚しなかったの?」
読まなくなった本を何冊か抱えたまま、僕は、自分に説明するようなつもりで彼女に言った。あるいは、僕と並んでプリクラに写っていた彼女に。
「何かがハッピーエンドか、あるいはそうでないものかに必ず収束する、なんておとぎ話だろう? 僕らは、自分たちが想像するよりもっとたくさんの何かに縛られてた」
彼女は一瞬呆気に取られた顔の後笑って、そうね、とだけ言った。僕は彼女の手からそれを取り上げ、指で弾いてゴミ箱の中へ投げ入れた。
2004-05-12 Wed. 嘘日記 「出発」
「どうしても行くんですか」
少し大きな荷物を携えた男。彼を追いかけてきた女。彼女の手には荷物のようなものは一切なく、男の後を追って行くつもりはないように思われた。
「行きます。もう決めたことですから」
女はうつむき、悲しそうな表情をする。涙こそ流してはいないが、その表情は泣いているようにしか見えない。
「じゃ私は独りになるんですね」
男が応えて言う。
「けれどそれは、あなたが望んだことでしょう」
2004-05-19 Wed. 嘘日記 「関わらないで」
「あ」
「あっ……久しぶり」
思わぬところで思わぬ人に出会う。僕は動揺を悟られないように、軽く会釈だけしてその場を立ち去ろうとした。けれど彼女はそれを許さず、僕の腕を掴むようにして引き止めた。
「本当に久しぶり! もう何ヶ月くらい? ちっともメールも電話もくれないから」
「うん、まあ、最近忙しくて」
僕が不自然に視線を泳がせるわけを、彼女が察することはないのだろう。
「ねえ、今何してるの? 時間あるんだったらどこかそこらへんで」
「ごめん、急ぐから」
「……そっか、じゃまた今度」
少しうなだれる彼女は昔と変わらず純粋なままで、その仕草のひとつひとつが無意識のうちに僕を傷付けていることさえ、到底知る由もないのだろう。
「できれば、もうあなたとは関わりたくないです」
僕の言葉は、彼女の心を何よりも傷つけるだろう。何も知らずにいる彼女にそれだけ伝えることはとても残酷なことだとわかっているけれど、僕は他に採るべき方法を知らなかったし、今の彼女と同じくらいに僕の心は既に傷付いていて、もう何のための努力もできないくらいに疲れていた。
「……そっか、じゃあね」
伏し目がちに立ち去る彼女は、僕に理由を問いただしはしなかった。あるいはどこかで気付いていたのだろうか? もう知る術はどこにも残されてはいないけれど。
2004-06-09 Wed. 嘘日記 「期待外れ」
「僕は、君を助けない」
散々悩んだ末に意を決して発した言葉は思いのほか平凡だったようで、彼のカップを持つ手は震えなどしなかったし、表情にはさっきと違う色など見えはしなかった。
「どんな危ない状況になっても君を助けはしない。巻き込まれるのはごめんだし、君を助けても利益がないんなら、僕は些細な労力も割かないと思う」
「それでいいよ」
落ち着き払った一言に、僕が狼狽する。
「それでいい」
もう一度言うと、また静かにコーヒーを飲む彼。
「どんな危なくなっても、例えばその後の君自身の人生がどうにかなるような問題に発展しても、僕は助けはしないよ。一晩ぐっすり寝たらそんな問題があったことすら忘れると思う。君に助けを求められても指一本動かさないかも知れない。助けを呼んでくれと頼まれても、誰にも伝えず放っておくかも知れない」
並べ立てた言葉はどれも僕自身を幻滅させたけれど、彼にとっては大したことでもないようだった。
「わかってる。それでいい」
「……わかってないよ。つまり僕は、君のことを少しも」
「思いやってくれてるさ」
初めて彼がカップから手を離す。
「口だけ "いつでも頼ってくれ" な連中よりよっぽど僕を気遣ってくれてるだろう? 君に期待することはなくなっても、君に絶望することもなくなるさ」
2004-07-16 Fri. 嘘日記 「解決策」
「怖いんだよ、それが。今はまだこれといった問題はないけれど、僕はそのうち動けなくなる。動けなくなってもしばらく生きているかも知れないし、すぐに死ぬかも知れない。いや、それはまだいい。救いがあると僕は思う。問題は死にたくても死ねなくなった場合のことだよ。僕はそれがとても怖い。そのことを想像しただけで気が狂いそうになる。現に、生き物が普通に経験すること全てがそれへのプロセスに思えて、お腹が空くだとか、眠くなるだとか、爪を切るだとか、髪が抜けるだとか。死ぬ日のことを想像すると生きている気がしない。死ねなくなる日のことを想像すると生きていられない気分になる」
「うん、君の言いたいことは大体わかったよ」
まくしたてた男をなだめるように、優しい目付きで優しい答えを返して、後ろ手に持っていた鞄の中から何かを取り出す。彼の態度とは逆に、無造作に、ぶっきらぼうに差し出されたそれは、選択肢も結末も一瞬で明示できる存在感を持っているように思われた。
「安心して、どんなことにだって解決策はあるんだ」
「あの、これは、いったい」
「見ての通り、荒縄だよ。どこにでも売ってる普通のやつ」
ハッピーエンドなんて自分で決めればいいんだよ、小さくつぶやく彼の表情には、冗談だとか悪ふざけなんて様子は微塵も現れていない。
2004-09-12 Sun. 嘘日記 「想い出の品」
本棚を整理していたら、中学生の頃、同じクラスの女の子とやり取りした小さな手紙が山のように出てきた。紙ケースの中へまとめて隠すように、無造作に突っ込まれたそれの数は、全部で三十弱にも及んだ。中身はどれも他愛ないような会話で、主語が抜けていたり代名詞で片付けられていたり、万が一誰かに見られても困らないような無意識の細工が施されていて、僕はそれを読むごとに思い出と対面することになった。そのうちのいくつかのものは、思い出したくない類のものだったけれど。
「……懐かしいな」
僕がようやく口にできたのはそれだけで、あとはただ、手紙の文字と彼女の名前と、一字一句に胸を高鳴らせていたような当時をなぞって、久しぶりに、けれどあまり快くないそれを追体験するだけだった。ろくでもない結果を知っている今となっては、どれもが間抜けで片手落ちな行動でしかなかったように思えた。
僕は、彼女が好きだった。
「また、そのうち」
上手く言い訳を口にできた僕は、手紙を全部、元のように無造作に紙ケースへ突っ込んだ。あれを何かの基準に沿って整理するには、まだ心の準備期間が要る。懐かしさと、情けなさと、再会にも似た喜びと、ただ途絶えない後悔と。今の僕には、荷が重い。
「また、そのうち」
上手く、言い訳を。
2004-09-22 Wed. 嘘日記 「良くない言葉」
「あまり良くないな、こういう話は」
真剣に言葉を選んだつもりだったのに、口を突いて出た言葉は、ありきたりで印象の悪く何も良い方向へは導けない、(いつも僕が吐き出しているような)そんな類のものでしかなかった。
「僕は、君のことを、もっと理解したいと思ってる。そのためにこの何年か努力し続けてきたし、これからもきっとそうする。けれど、君は、どうして、そんなことを」
「知らないくせに」
彼女の言葉が核心を突き、瞳の色が疑惑から確信へ、僕を追い詰める、断罪、けれどそれは同類を哀れんで見つめるような、深く澄んでけれど苦しげなものだった。
「知らない? 僕が、何を知らない?」
「あなたは私を知らないわ。何も知らない。何を食べてどこへ行くのか、何を観て何を聴くのか、誰と話してどんな男と寝るのか、私が何を好きなのか、あなたは何も知らないでしょう」
牧羊犬がそうするように、自信に溢れて僕を追い回す、言葉。
「……あまり良くないな、こういう話は」
ありきたりで、何も良い方向へ導けない、僕の言葉。
2007-07-07 Sat. 嘘日記 「隣でささやく」
「僕が君と幸せに暮らすためには、どうにかして彼を亡き者にしないといけないみたいだ」
「それは無理ね、絶対に無理だわ」
「どうして」
「私がさせないもの。どうしたって彼のためなら、あなただって始末してしまえるわ」
それだけ言うと、何でもないことのように寝返りをうって、彼女はまた少し眠った。