monologue : Other Stories.

Other Stories

雨の通り、繰り返し

「その、傘はささないのかい?」

薄いグレーのスーツを着たサラリーマンが僕に言った。通りは先を急ぐ人ばかりで、小雨に濡れはじめた僕に関心があるのは、どうやら彼だけのようだった。

「ああ、傘ね……これのこと?」

僕は右手に握っていた傘に視線を落として、その後もう一度彼を見た。

「他に傘は持ってないだろう? 雨も強くなりそうだから、風邪をひくよ」
「……そうだ、きっと風邪をひくだろうな。傘をささなきゃ」

僕はもう一度傘にゆっくりと視線を落とすと、おぼつかない手つきでスイッチを探した。自分の手元にある傘に手間取る僕を見て、彼はこの傘を盗品だとでも思っただろうか。それとも、ただ不思議に思っただけだろうか。あるいはそんなこと気にもしなかったか。

どれにしろ、僕は言わなくてもいいことを二言三言口にしていた。

「あー、先週姉貴が使ったから、きっと錆びてて……開かないかも」

と僕が弁解のような言い訳を口にした途端、傘は音をたてて開いた。

「そうでもなかったみたい」

僕はとってつけたような愛想笑いで彼を見たが、彼は何も言わずに通りを下りはじめた。腕時計に目をやると、時間は八時と十五分をまわっていた。

「八時、十五分。七月、十二日」

腕時計の数値を読む。

「なんでこんなところにいるんだっけ?」

すれ違いの通行人が僕を見る。僕は慌てて口元を押さえ、何事もなかったように歩いた。通り過ぎた通行人は僕を振り向いてみることもなく、ただ通り過ぎていった。あんなセリフ、誰かに聞かれたら何事かと思われるに違いない。

「なんで、こんなところに、いるんだっけ?」

もう一度、さっきよりゆっくり、ずっと小さな声でつぶやく。頭は落ち着いてる。どこも痛みや不快感はない。記憶喪失とかじゃなくて、ただのど忘れだ、きっと。

「松永」

傘の柄のネームプレートを見てつぶやく。ちょっと高級な傘だと自己主張するかのように、ゴージャスなメタルプレートに漢字で名前が彫ってある。"松永 実" と書いてあるのと、あとは住所らしき番地。僕はこんなものに見覚えはなかった。

「……誰の傘だ、これ」

僕は自分の発言の不可解さをしっかり理解できていた。この傘はついさっきからずっと握り締めてるし、僕のものに間違いはない。

「ついさっき? いつからだ?」

自分の思考に、自分の中の誰かが問い掛ける。いつからあそこにいたのかもわからなくて、自分のじゃない気のする傘をさしている。

「あそこにいた? あそこってどこだ?」

振り向いてつぶやく。間違いない、僕がさっきまでいたのはコンビニ『サンクス』の軒先。

「……さっきまであそこにいて、今は」

今僕が上っている、緩やかなこの坂は四谷通り。もう少し行けば坂は平坦になって、いくつかのテナントとコンビニ『ローソン』がある。そこをさらに行くと大きな交差点があって、その向こうは学校の敷地。間違いない。僕は今そこに向かってる。

「じゃあ、この傘は誰のだ?」

誰のでもない、僕の傘だ。手に馴染んでる記憶もあるような気がするし、僕が持ってるんだから僕の傘のはずだ。ただ、ネームプレートの名前には見覚えがなかった。

「松永……ミノル」

多分 "ミノル" と読むのだろう。松永 実。女性用の傘に見えないこともないが、"ミノリ" なんて、そう聞く名前じゃない気がする。僕の名前は松永じゃ……僕の名前? なんだっけ?

支離滅裂に思考が交錯してまとまらない。それでも足はどんどん目的地へ向かう。

「……ローソン」

コンビニ『ローソン』を通り過ぎる。いつもの野良猫が客に食べ物をねだっている。雨の日も変わらずに、むしろ雨の日だからこそ必死に媚をうっていた。

「新築のマンション、バス停」

見覚えがある。確かに見覚えがある。何ヶ月か前に建ったばかりの新築マンション。豪華にも十五階建て。いやもっと多いだろうか。数えたことはない。

「数えもしないで十五階だって?」

どうかしてる、今日の僕は。今日の僕? 昨日の僕はどうだった? 交差点で信号待ちをしながら、また交錯する思考。まるでこの交差点そのものだ。

「昨日の僕? 昨日の僕もここに?」

交差点の向かい側に一人の男が立っていた。いや、男は他にもたくさんいるのだけれど、その男が目に入った。なんだか小雨の景色に比べて輪郭がはっきりしていて、まるで絵のような男だった。

「昨日もいた男?」

口が勝手につぶやく。信号が変わって、今度は足が勝手に歩き出す。そのとき、男の口が動いた。視力の悪い僕にもはっきり見えて、雑踏に紛れずにはっきりと聞こえた。

「また失敗だ」

ぼんやりと歩き続ける僕の右脇に、信号無視かスリップかで車が突っ込む。ちょっと褪色した白色のダサいクラウン。ナンバーは尾張小牧。確か 33 番と、「ま」だったか「も」だったかで始まるナンバープレート。

ああ思い出した。僕はここで轢かれて、そのまま意識が

「その、傘はささないのかい?」

薄いグレーのスーツを着たサラリーマンが僕に言った。通りは先を急ぐ人ばかりで、小雨に濡れはじめた僕に関心があるのは、どうやら彼だけのようだった。

「ああ、傘ね……これのこと?」

僕は右手に握っていた傘に視線を落として、その後もう一度彼を見た。

Fin.

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