monologue : Other Stories.

Other Stories

待ち望む日

僕は、何かが起こるのを待っているのかも知れない。何か、そう、奇跡とか、そういうようなもののことだろう。きっかけがどこからか生まれて、それが今の僕を変えてしまうような夢をみているのかも知れない。

僕は、待っている。

「こんばんは」

インターホンが鳴り、玄関から声がする。この時間に僕の部屋を訪れるのは大抵彼女だ。

「いらっしゃい、真理さん」
「もう、また電気つけてないじゃない。まだ寝ちゃうような時間じゃないでしょ?」

壁にかけた時計に目をやると、午後八時をまわるところだった。

「どうせテレビ観るわけでも本読むわけでもないから、別につけてなくても困らないんだよ。それだけ」
「暗い部屋で生活してたら暗い人間になるわよ」

彼女は両手に抱えてきた紙袋を机の上に置くと、窓に歩み寄り、勢いよくカーテンを閉める。マンションの構造上、僕の部屋は向かいの棟から丸見えになる。彼女はそれがあまり好きじゃないらしい。きっとそれは体裁とかそういうものなのだろう、と僕は勝手に解釈している。

「待っててね、すぐに夕飯作るから」

自分の持ってきた紙袋からエプロンを出すと、それを身に着け、また紙袋の中をいじりまわした。その中からいくつか材料を取り出すと、キッチンの流し台へまな板を置いてその上に並べ、彼女は料理を作るための準備を始めた。

彼女が僕の部屋へ来るようになってから、きっともうすぐ一年になる。

「ねえ、真理さん」
「なに?」

僕を見ずに手元へ視線を落としたまま、けれどいい加減な受け答えではない様子で、彼女は僕の呼びかけに答える。

「その、飯とか作りに来てくれるのは嬉しいんだけど」

軽快な、包丁が何かを刻む音。どうやら雨が降り出したようで、水がマンションの壁を流れる音が聞こえる気がした。

「もう、兄貴が死んで一年になるから、だから」

一瞬彼女の手が止まり、またすぐに元のリズムを取り戻す。

「その、義理立てっていうか……。そういうんじゃないだろうけど、なんていうか」

表情を変えずに料理を続ける彼女を見ていることが、なんだかとてもやましいことであるような気がして、僕はなんとなく目をそらしてしまった。

「もう、新しい人生、っていうか、新しい人を探しても、きっと誰も文句は言わないよ」

兄が突然交通事故で亡くなってから、来週でちょうど一年になる。僕の両親は十年近く前に他界しているので、兄しか身寄りのいなかった僕は、正真正銘、天涯孤独となってしまった。

そういう僕の身の上をどうにか思ったのか、兄の妻だった真理さんが、僕の世話をしたいと申し出てくれた。世話といっても、せいぜいが食事の世話だけれど。

両親と兄の生命保険でこのマンションの一室を買い、そこに住む僕のところへ、真理さんは毎日夕食を作りに来てくれている。

「だから、その、なんていうか」

包丁が規則的に刻む音。雨が、窓を打つ音。

「僕のことが荷物になってるんだったら、気にしなくていいから」

また彼女の手が止まる。今度はすぐに動き出しはせずに、しばらく彼女の視線はどこか宙をさまよっているようだった。しかし少しすると、いつもの彼女の笑顔は言った。

「ううん、そんなことないから」
「そんなこと、って」
「あなたの食事を作りに来てるのは、義理立てとか同情とかじゃないのよ」
「でも」
「自己満足なんだから。こうして料理を作ってるとね、伸一さんと一緒にいるような気がするの。今でも、彼の帰りを待ってるような、そんな」

そう言って、一瞬悲しげな表情を浮かべたかと思うと、今度はさっきよりも明るい表情になった。

「だからね、あなたのことを邪魔に思ったりはしてないわ」
「……そう、だったらいいんだけど」
「気にしないでね。私だって自分のことも考えてるんだから」

彼女の最後の台詞がどういう意味か図りかねて、僕はそのまま黙り込んだ。僕を見透かすように彼女は微笑んで、料理を続けた。

僕は、何かが起こるのを待っているのかも知れない。兄がいなくなって、彼女がここへ来るようになった、そのことに何か意味を感じたかったのかも知れない。もし何かのきっかけがどこかから生まれて、彼女がずっとここにいるように、毎日帰らなくてもいいようになったなら、と、そんなことを考えているのかも知れない。

雨は、少しずつ強くなっているように思えた。僕は、待っている。

不意打ちのような義弟の言葉で、あの人がいなくなって早一年が過ぎたのかと思い知らされる。私は、忘れていたのだろうか? 一番愛しい人であった彼が亡くなった日のことを。まさか。

「ごめん。忘れて、今言ったこと」

彼が思いつめたような表情で言う。

「いいのよ、気にしないから」

彼には、作り笑顔だったことがわかってしまっただろうか? 私の言葉が嘘だと見抜かれてしまっただろうか?

「伸治くん、もっと楽しんで生きなきゃだめよ。伸一さんの分も、っていうわけじゃないけど」
「うん、わかってるよ。あまり思いつめても仕方がないし」

力なく笑う彼の表情は、私の夫だった男にそっくりだった。慌てて目をそらし、手元に視線を戻す。

「必要だったら朝ご飯も作ってあげるわよ」
「そこまで手間かけさせられないよ、真理さんだって仕事があるんだろ」
「たいした手間じゃないわ」

私が笑い、彼も笑う。ああ、これでいつも通り、と私は心の中でつぶやく。一年前から続いている日々が、今日も続く。

ときどき、何なのだろうと思う。彼が亡くなり、私の提案で始まったこの生活に、何の意味があるのだろうと。どうして私はこんな提案を? 彼のことを忘れられるから? それとも忘れないように? 自分の心を縛り付けていられるように? どうして私は、こんな提案を?

気が付くと外では雨が降っているようで、カーテンの向こうで雨粒が窓を叩いている。

もしかしたら、何か期待していたのかも知れない。彼がいなくなって生まれた心の隙間を、彼そっくりの顔をした男が埋めてくれるのではないかと。私の、不謹慎で浅ましい願いごとが、この生活の中でならいつか叶えられるのではないかと。

私は、待っているのかも知れない。

Fin.

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