Other Stories
煙草は吸わない
- I Don't Smoke
- http://www.junkwork.net/stories/other/034
「煙草は?」
「……煙草?」
「ええ。吸われますか?」
「僕ですか?」
とっさの答えがよほど面白かったのか、その看護師は遠慮もせずに吹き出した。
「違います、里美さんが、ですよ」
「ああ……そうですよね」
ちらとお袋へ目をやる。ベッドへ腰掛けたまま、窓から見える景色に心を奪われているようだった。あるいは、ただ放心していたか。
「吸います」
「一日に何本くらい?」
「さあ、それはちょっと……」
「月に、の方がわかりやすければそちらでも」
「さあ……」
今度は少し控えめに、けれど確実に、彼女は不審に思ったのだろう。僕を見る目に、何か見慣れないものに対する懐疑の色が混じっていた。
「そうですか。病院内は禁煙になってますので、どうしても吸われたいときには病院の外か、十四階レストランの喫煙コーナーでお願いしますね」
「ああ、はい」
「それじゃ、手続きの書類をお持ちしますので、ちょっと待っててください」
「お手数かけます」
そう言うと彼女は、お袋を少し気にしながら病室を出て行った。ふう、と一息ついて、両手に抱えっぱなしだった荷物をベッド脇へ置いてから、お袋と肩を並べるようにベッドへ腰掛ける。
「吸わないよ、煙草なんて」
お袋が、視線を窓の外へ向けたまま言う。
「なんだ、聞いてたのか」
「私が吸うか、って話だろ? 吸わないよ煙草なんか」
「嘘つけよ」
ネクタイに人差し指をかけ、左右に振りながら少し緩める。伯母から連絡をもらったのが仕事中でなければ、病院といったってこんな堅苦しい格好で来ることはない。上司の見舞いにだって私服で訪ねたくらいなのだから。
「それにしても驚いたよ、母さんが倒れて病院かつぎこまれたって電話もらって」
「ちょっと横になっただけだよ、倒れたなんて大げさに」
「意地はらなくてもいいだろ。もうそんなに若くもないんだから」
しわもますます増え、髪もほとんど白くなった。腕は前に見たときよりもきっと細い。体のラインは華奢なんて表現では追いつかないくらい、細くもろいように見える。
「ま、今回の入院でゆっくり養生しなよ」
「また大げさに」
「大げさなんかじゃない。若いときより、もっと健康に気を遣わないと」
つい、少し声が荒くなる。お袋が黙り、僕も黙る。
窓の外には、十二階ならではの豪華な景色が広がっている。背の高いはずのビルの屋上がすぐ目の前にあって、その下には小さな小さな車が走って、近くの公園でベンチに腰掛ける人はもっともっと小さい。西日がどれもこれも均等に橙色に染めて、少しずつ、街灯が目を覚まし始める。もうすぐ日が沈んで夜になり、何も見えなくなるだろう。
僕は立ち上がって、部屋の出入り口へ向かった。お袋と肩を並べてベッドに座っているのが、なんだか難しいことのような気がした。病院の個室で、夕日の沈むこのタイミングでは。
「ちょっとコーヒー買ってくる。下の自販機まで」
「ああ、そう」
「何か要る? 食べ物とか、飲み物とか」
「要らないよ」
「わかった。五分くらいで戻るから」
お袋は僕を見ずに質問に答えて、姿勢を崩すことなく外を見続けていた。僕は誰にも聞こえないくらいにおとなしいため息をつくと、部屋から外へ向かって歩き始めた。
「和夫」
お袋が僕を呼び止めた。振り返ると、さっきと変わらない姿勢のままでいる。聞き間違いかと思ったそのとき、もう一度お袋の口が動いた。
「どうして、煙草のことを知ってたんだい?」
「……一度、洗濯機の横に置き忘れてたことがあったんだよ」
「私のじゃなかったかも知れないじゃないか」
「親父はラークなんて吸わなかっただろ」
お袋がまた黙り込む。しばらく間を置いて、つぶやくように言う。
「親が思う以上に、子供は、親のことを見てるもんだねぇ」
僕は何も言わずに振り返り、病室を後にした。何も言わず、誰の目も見ず、黙々と歩いて自動販売機までたどり着き、小銭を投入口へ押し込む。いつものコーヒーを選んでボタンを押し、取り出し口からそれを取り出すとき、ようやく僕は、知らず知らずのうちに自分が泣いていたことに気がついた。
夕日は沈み、あたりは薄暗くなっていた。
Fin.