Other Stories
日常の記録
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自分自身に呆れたような、世界中の煩わしいことに愛想を尽かしたような、そんな風に、投げ捨てるように溜め息を吐く。もっとも、僕の触れることの出来る世界というのは、同じ年代や同じ地域に住む誰よりも、狭くて惨めなものなのだろうけれど。カーテン越しの不躾な光と小鳥の鳴き声が、もう夜は明けるのだと僕に告げた。
「僕には関係のないことだよ」
小鳥か何か、そこらへんを飛び回る小さな羽虫か、僕は何かに答えを返す。その答えに何も返ってこないことは知っているし、期待してなどいるはずもない。偶然この言葉を壁越しに耳をそばだてて聞いていた誰か、なんて、三流の少年誌くらいにしか展開されない世界だ、なんて。
「最近はそういうのが流行ってるみたいだけど」
少し固めのベッドに体を横たえる。色気のない軋み音が小さな部屋に響く。もう一度投げ捨てるような溜め息をつき目を閉じると、瞼の下で何かが燃えるような感触に襲われた。ずっとパソコンのモニタを見つめていたから、ただ目が疲れているだけなのだろうけれど、そんなことでも僕にとっては貴重な痛みだった。
僕が人と触れ合わなくなってから、心や体が痛む機会をなくしてから、もう一年になる。
「格好良く言ってみたってだめなもんはだめだっての」
インドア派なんて聞こえの良い言葉で定義してみたり、人によっては人格障害だとか適応障害だとか鬱病だとか、医者に太鼓判を押してもらえるだけで安心して、逆にそれをアピールするようにもなるらしい。
「どう呼んだって引きこもりは引きこもり」
大学に入って、独り暮らしを初めて、白い小さな部屋を借りた。最初の一年は順調に、少なくとも目に見えるトラブルはなくやっていられた。二年目が数ヶ月経過した頃、突然人ごみがどうしようもなく耐えられないものになって、大学を休みがちになった。名前も知らない誰かと体が触れることがとても不潔なことに思えて、すれ違いざまに肩がぶつかってすぐ、トイレに駆け込んで水で洗い流そうとしたこともあった。肩や腕だけならまだ我慢もできたけれど、指や手のひらが自分に触れることはどうしても耐えられなかった。彼の、彼女の、日常をこなすために一番頻繁に使われる道具が、その残り香の消えないうちに僕を侵食する。どうしても耐えられなかった。
大学から遠ざかり、人ごみから遠ざかり、僕は自分の部屋の中で、誰とも触れずに済む日々を送ることにした。選択肢は他にないように思えた。白い小さな部屋は、小奇麗な牢獄になった。
「好きでやってるわけじゃないよ」
外に出られなくなって半年くらいが過ぎた頃、母が部屋を訪れて泣いた。無駄に学費や生活費を支払い続けていることが悲しいのかと思ったらそうではないようだった。頼むから病院へ行って診てもらってくれと、そういうことだったらしい。病気だと認定されただけで前向きに生きられるほど自分が単純ではないことはよくわかっていたから、生返事を返すだけで終わったけれど、親が自分の身より金銭のことを心配しているだろうと思い込んでいた自分に気が付いて、情けなかった。
「あんな連中と一緒にされたくないよ」
嬉々として服薬中の薬品をリストアップして、ネットにアップロード。リストカットの写真を並べて、ガーゼの写真を並べて、耽美な言葉を添えて、特殊な自分をアピールするために病気の名前を肩書きに、いつまで経っても終わらない治療を続ける。そんなことにアイデンティティを見出して生きる喜びを見つけて、「死にたい」と心にないことを言い続ける矛盾した青春なんて送りたくない。
「あんな連中と一緒に」
けれど、僕はそれ以下だった。そのことにも気が付いていた。自分が何であるとか定義されることが怖くて、定義されたらそこから始まる新しい道を歩かなければならないことが面倒くさくて、新しい肩書きや新しい生活や新しい意識を受け入れることが怖くて、だから何の生産性もなくそこに居るために、僕は自分から何の行動も起こさないことにした。大学には休学届を出して、親には「心配ない」を繰り返して、医者には一度もかかっていない。
白い小さな牢獄は僕を外の世界から完全に隔離して、ケーブルに繋がれたパソコンのモニタから見える文字と画像と映像と音声との、小さな小さな縮尺図が僕の世界のほとんどを占めるようになった。
「あんな」
いつか革命が起こるだとか、そんなことは信じていないけれど、それでも僕は自分から何かを変えるようなことはしないだろう。もっとも、こんな薄っぺらな信条が明日の午後にでも変わらない保証はないのだけれど。それだって自分から革命を求めるものでない以上、ただの受身以外の何者でもないのだろうけれど。
ただ、今までしてこなかった習慣として、ひとつだけ新しいことを始めた。日記を書き始めた。テキストサイトというやつを作って、そこに自分の日常だとか見聞きしたことを、脚色たっぷりに書き連ねることにした。そこでなら誰かと肩が触れることもないし、誰かの日常の延長に僕が侵食されることもなかった。狭い世界、モニタ越しの縮尺図は思ったよりも僕を楽しませたから、書くことに尽きることはなかった。
「知ってるよ。以下だ、僕は」
どこへ行くための行動も起こさないことにしたし、ただ留まって何かの中継点になり続けるだけで、自分からは何も生み出していないことが意識できないほど、僕は馬鹿ではなかった。馬鹿だったらいくらか救われていたかというと、そうでもないだろうけれど。
閉じたままの瞼の下の、目の疲れが治まって熱感が引いていく。背中に冷たく当たる固めのベッドは、少なくとも僕よりはしっかりした存在に思えた。白い小さな牢獄の壁は鉄筋コンクリート造りで、もしかしたら僕より長生きできるかも知れない。
モニタにアイコンがポップアップして、スピーカーから間抜けな効果音が響く。メールの着信音なんて久しぶりに耳にした。
“はじめまして、突然のメール失礼します。サイトにあるテキストを読ませていただきました。まだ少ししか読めてないんですが、とても面白いと思いました。また今度読ませていただきます。”
メールの末尾には差出人のサイトのアドレスが書かれていて、本当に僕の文章を読んで感想をよこしたのか無差別に宣伝のメールを送っているのか判断を迷わせたけれど、それでも僕は、喜び勇んで返事を書き始めた。
「……君みたいなのに、僕がどれだけ救われてるか」
知らないだろう、日常の片手間に他所の世界を覗くような感覚では。くだらない言葉を頭の片隅に押しやって、礼儀正しい文面を迷うことなく打ち込んでいく。
重くて開きそうにないカーテンの向こうで、小鳥が鳴いている。
Fin.