monologue : Other Stories.

Other Stories

悪魔

ジニーは、少し疲れた初老の顔の前で、若かった頃には町中で五本指に数えられるくらいに素敵だった、けれど今は見る影のない皺の寄った両の手をすり合わせた。

「これだけじゃ、到底やって行かれないんです」

昨晩見た嫌な夢も、彼女の気を煽る要因のひとつであった。あれは一体何の夢であったか。最近流行りの心の学者であれば、彼女の今の精神状態をどのようにか判断するのであろうか。

「けれどね、うちだって苦しいんだよ」

店主は、わかりきったような口調で、少し攻撃的に言った。

戦後不況の煽りを真正面から受けて、彼女の働く洋裁店は火の車だった。もともと大した収益のあるような店ではなかったけれど、経理と営業とを担当する店主――お世辞にもいい男とは言えない、ジニーより少し年上の無愛想な男――、裁縫と店番と雑用を担当する彼女と、二人が人並みに生活する程度には収入を得ることができていた。もっとも、それすら奇跡的なことだったのではないかと、今の彼女には思えるのだけれど。

「あんたには長いこと勤めてもらって感謝してるけれど、それとこれとは話が別なんだよ。うちだって一人所帯だから生活費は安上がりなもんだが、それでもめいっぱい切り詰めてるんだ」
「でも私は、これじゃ夕飯にベーコンの一切れも食べられません」

店主の家族は、彼の不甲斐なさに逃げ出してしまった。一人じゃ店を運営できなくなった店主は、同じ時期に仕事をなくしたジニーに声をかけた。もう、そんなことはどうでもよいのだけれど。今日の賃金交渉が成功しなければ、週末にだって仕事を辞めてしまってもいい。あるいは、彼の奥さんみたいに、隣の隣の町へ逃げたって。

「パンが食べられりゃあいいじゃないか。今時、誰だって腹を空かしてる」
「でも」
「デモもストもあるか。ほら、客だ。稼いでくれよ、なあ」

彼の表情は、どこで見る誰よりも醜悪に見えた。ジニーは疲れた顔と、彼よりは少しましな無愛想さで接客に応じた。

昨晩見た夢は、一体何の夢であったか。

ジニーは夜の大通りを歩いていた。店のある七番通りと彼女の住む三番通りをつなぐ道。もっと近い道もあるけれど、治安の悪さは折り紙つきで、ろくな神経の持ち主は誰もそこを通ろうとすら考えない。少なくとも街灯の点いている大通りは、通り魔や強盗に会う確率は気持ち少ない。

その大通りを半分通り過ぎて、四番通りにある中央公園を右手に眺めたとき、そこにいくつかの人影が動いていることに気がついた。一人は、地面に突っ伏すようにうずくまっている。一人は、その側に立って、彼を見下ろしている。あとの二三人はその周りに、遠巻きに見つめている。戦災孤児か、でなければ浮浪者を私刑リンチにでもかけているのだろう。どちらにしろ、気持ちのいい光景などでは到底ない。きっと彼は明日か明後日の朝刊隅に小さく載って迷宮入りする事件の犠牲者か、誰も行方を知らない、向こう数十年はいなくなったことすら気づかれない哀れないち市民になるだろう。ジニーには助ける義理も、その姿を記憶に留める義務すらない。いつも通り、黙って通り過ぎる。

とその瞬間、尋常でない叫び声が辺りに響き、何か嫌な音が耳の奥に響く。浮浪者の断末魔にしては威勢がいい、と妙な胸騒ぎを覚えてそちらへ目をやると、彼を見下ろしていた一人が、どうもおかしなことになっていた。腰から上が影すら見当たらず、まるでその部分から切断されてしまったような。彼の取り巻き数人は腰を抜かしてその場にへたり込んでいた。もっとおかしなことには、地面にうずくまっていた浮浪者か何かが、その場所にはいなかった。その代わりそこに、何か獣のような、見たこともない大きな生き物がうずくまっていた。

悪魔だ。ジニーは直感的に考え、恐ろしくなって走り出した。

背後から、きっちり人数分の、嫌な音が響く。悲鳴はもう聞こえない。次はまさか、自分の番だろうか? 何も見ないで済むように、ぐっと目をつぶってひたすらに走る。街灯か何かにぶつかっても構わない、例えば大胆不敵な強盗に巡り会ったとしても、今はそちらの方がありがたい。とにかく走られるだけ走って、ふと気がついたときには、汗ぐっしょりで彼女の古いベッドの上に横たわっていた。

あれは、夢だったのか。下層階級に食いつぶされる、だなんていう、心の学者が判断するような夢だったのか。それとも、本当に見たことだったのか。

翌日の仕事でジニーは、店主に賃上げを要求した。戦後の煽りを受けて不況であることは誰だってわかっていたけれど、パンと卵とせめてベーコンが食べられなければ、いつかは栄養失調で倒れてしまう。誰もが倒れたらこの国はおしまいだ。ようやく乗り越えた戦争より、その後の不況で滅びるなんて、なんてやるせない話だろうか。交渉がうまくいかなくたって、他に探せば食いつなぐための仕事くらい見つかるだろう。今より状況が改善しなくとも、パンだけならば食べることはできるだろう。状況が改善しないのに改変を志す、ということは、とても不合理で利益のないように思えるけれど、これはここまで来たのなら、もう心の平穏の問題であり、店主と自分の中の否定的な自分に対して、決意を見せ付けてやる最後の機会でもある。だから、彼女は覚悟のもとに店主へ要求した。

そして結果はある意味予想通りで、彼女は密かに心に決めた、週末の退職までに新しい仕事を探すことが必要になった。そのことは店主に知られても知られなくても構わないだろう。

その日の帰り、彼女はいつも通り、大通りを三番通りに向かって歩いていた。やがて半分を過ぎたところで四番通りに差し掛かり、右手に中央公園が見えた。名ばかりの古びた空地となったそこで、ふと吐き気を伴う既視感を覚えた。いつかの、いや、昨晩の、あの光景がそこにあるのだ。一人のうずくまった男と、それを見下ろす一人の男、その周りに二三人の男。辺りにはやはり人影はなくて、ジニーは自分の立ち位置も彼らの立ち位置も、前に見た通りそっくりそのままであることにも気がついた。

いけない、逃げ出さなくては。あれが夢であっても現実であっても、こんな光景をもう一度見なければいけないなんて、どうにも気持ちのいいものではないし、今度も良くない最期が自分に訪れないとは限らない。音を立てないよう、気付かれないように早足で公園の隣を駆け抜け、肩で息を切らしながら、またゆっくりとした歩調に戻る。

あれは、昨晩の出来事は一体何であったのか。夢だったのか、現実だったのか。そして今晩のこれは、これこそ一体何であるのか。自分は、試されているのか?

どうしようもなく気になって、ジニーは通りを引き返す。公園が少しだけ見える位置まで戻って、息を殺して様子を伺う。そこには、本来あるべき光景があった。もう見下ろす男たちはいなくて、うずくまっていた男は倒れ込んだ姿勢で、もう動かない。私刑執行、終了。

ジニーは少しだけ胸を撫で下ろして、また元来た道、彼女の住む三番通りへ向かって歩き出した。これが、あるべき日常。彼女の住む世界。例え誰かが死んで、それが朝刊の隅程度の面積しか占有できないとして、誰がそれを否定できるだろう? 彼女の住む世界には劇的な変化など訪れないし、そこに住む彼女の小さな安堵を、否定することなど誰にできるだろうか?

ジニーは少しだけ胸を撫で下ろして、彼女の生きるべき場所について思いを馳せた。今は夕飯にベーコンを食べられなくても、パンと、二日に一回なら卵も食べられるだろう。今は、それで何とか凌いでいくことだってできる。もう少し、ここにいて続けてみても、あるいは手遅れにはならないのかも知れない。だとしたら、性急にことを運ぶのなんて、危険な綱渡りにしか思えない。変化なんて、もう世界中が経験している。その変化は過ぎ去って、そう、戦争は終わったのだ。

明日からも、私は生きなければならない。驚くべき速さで私を追いかける悪魔などいない。夢の学者に現実を変える力はあるまい、私は、私のいるべき場所で私の仕事を続けるのだ。誰にも、食われることなく。

うずくまった名もなきいち市民に祈りを捧げて、ジニーは眠りにつく。

Fin.

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