monologue : Other Stories.

Other Stories

ノート

「いらっしゃいませ」

モノトーンで統一された家具と敷物と、うるさすぎない音量のジャズが、曲間の継ぎ目を感じさせないくらい上品に流れ続けている。十人に紹介すればきっと十人が、素敵な喫茶店だとか何だとか、はじめて何かに触れるときの軽い緊張の面持ちで言うだろう。僕には、この店を紹介するような間柄の十人の知り合いなどいないから、何もかも想像でしかないのだけれど。あるいは、妄想と呼び変えたって間違いはないだろう。

「ホットコーヒーひとつ」
「お食事はされますか?」
「あ……いいです」

店主はいつものスムーズな動きで僕を席へ誘導した。長身の彼にはこの店は手狭に見える。水とメニューをお持ちします、と言う彼の決まりの手順は、なぜかどれも筋書き通りには見えない。いつもその場で、僕を気遣ったために出てきた言葉のように思えた、もちろんそれこそ彼の接客業のセンスであり、そういう仕事なのだろうけれど。

携帯電話の液晶画面をライトアップさせて、何もメッセージが届いていないことを確認する。期待通りの結果に安堵と落胆のため息を吐く。期待を裏切らないということは、予定外の幸せをひとつひとつ、溜め池に投げ捨てているようなものだ。

「お待たせしました」

白い厚手のカップに注がれた一杯のコーヒーと、同じく白の小さな皿に乗せられたナッツが運ばれてくる。

「ごゆっくり」

無言で会釈を返して、鞄の中を探る。大して荷物の入っていないはずのそれから探り当てるようにして、ようやく一冊のノートと、小さなシャープペンシルを取り出す。一ページ目をめくると、先週の日付と殴り書きが一面に書かれている。

群像劇、登場人物は十人程度。舞台は病院、題未定。

熱くもぬるくもないコーヒーを一口飲む。店内には、僕の他に二組の客しかいない。一組は二十代半ば頃だろうか、女性二人が夕食を食べている。さっきから取材の打ち合わせとか店のウェブサイトがどうとか、フリーペーパーのデザインがどうとか話し合っている。計画が上手くいっているとき特有の、何かの力を放散させて自分を保つような、そんな力強さが片方の女性にはあった。もう一組は四十代くらいの男性二人、車を買うとか二輪を買うとか、自分の新しい店とか知人への道案内の方法とか、最寄りの地下鉄駅のことを延々と話している。今からピザを焼くとか、納車のタイミングとか。片方の男の髭は、昔のマフィア映画に出てくる大物のようだった。

ジャズが、転調を迎える。

僕は、開いたノートに小さなシャープペンシルで字をなぞり始めた。先週の日付の続き、群像劇の中身。持て余した時間をここで、誰にも見せずいつまでも上演されない脚本のために費やす。一人で考えている間は、それはとても素晴らしい中身のように思えるけれど、脚本と主演と助演と照明と演出と観客と、全てを一人でこなすわけにはいかない。だから僕は、ここから動けないのだ。

コーヒーを流し込むように飲む。

「それでさ、フェラーリでも買うのかと思って聞いてみるわけよ。急にバイクの処分の話とか持ちかけられたからさ。俺だって急に金工面できるほど余裕があるっていうわけでもないんだし」
「だから、今度取材するときには先にもう全部レイアウトも組んじゃうの。文面に起こすときにどれだけ省くかって感覚的にはわかりにくいでしょ? 経験を十分に積むまで面白いものが作れない、なんてばかみたいじゃない」

雑音のような音楽と言葉が入り乱れる。頭の中では、自分の鉛筆がなぞった文章をたどっている。カフェインは何にもならない。ここでこうしていることには何ひとつ変わりがない、そんなことはわかっている。わかっては、いるけれど。

薄いノートと鉛筆を持って、現れない君を待つために喫茶店へ行く。ボールペンを持たないのは、いつまでも店にいられないように。鉛筆の先が丸くなって滑りが悪くなって、コーヒーを飲み干したら諦めて退却する。君は現れない。文化の香りがする場所にいればこんな女々しい行動も許されるような、そんな気が。

「くだらないよな」

席を立つ、静かな敷物を踏みしめる。誰もいないレジの前で店主を待つ間、僕は、どうやって君と偶然出会うことができるか、そんなことを考えていた。

Fin.

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